Frigidus Symmetria
LexT: Inertia(慣性)
救助隊が来て、私は助かった。
あなたを殺したのだから、罰を受けるだろう。しかし、誰も私を責めなかった。
人々がかける言葉は、表現や過程こそ少し異なるが、結論は経路積分の様に等しかった。
「君だけでも助かってよかった。あれは事故だから、君に責任はない」
彼らが善意で言っており、他に掛けるべき言葉があまり無い事は分かっている。それでもその言葉は聴きたくなかった。
事故だ。しょうがない事だ。この様な状況をカルネアデスの船板というのだ。
私の理性は、それが正しいと命じる。
だが、心は間違いだと叫ぶ。本当に私に責任が無かったのか?
原因を調べなくては、到底納得できはしない。
真実を求めよう。
それから私は、調査を始めた。
まず、潜水艇の設計図を手に入れ、引き上げられた船体の片方を徹底的に調べ、ネジの一本まで記録した。
次に潜水艇故障の原因である、謎の地震についても、情報を入手した。
そして、あまり褒められたことではないが、救助隊に不手際が無かったかも調べた。
兎に角、この事故?(事故ではない可能性があるからこそ、私は調査しているので、この名称は暫定的なものだ)に関係あるデータを片端から集めると、両方が救えた可能性を模索し始めた。
可能性があった所で、時間旅行はできないというのに。
地震の原因は、専門家の間でも不明だった。
また、この地震で、自分よりもはるかに悲惨な目にあった者も大勢いたので、止む無く、これは第一原因と仮定せざるを得なかった。
救助隊は、この地震でかなり忙しく、私を助けに来れるかさえ疑わしかったのだ。しかしよく考慮すると、ある程度の時間短縮は可能だった。
だが、これが原因だとしても、救助隊を責めることは辞めていた。
この時間も考慮して、私は精密なシミュレーションを作り上げ、考えられる全ての可能性を実行した。
例え、ラプラスの悪魔が存在したとしても、その可能性は莫大なものとなる。
0と1の組み合わせが八つ重なるだけで、千以上の可能性があるのだ。バタフライ効果が起きる余地は十分にあるはずだ。
あの時、私が異なる選択をしていれば、二人とも救われる解もあったのではないか?
黒いボタンを押していたら?……二人とも死んでいた。
コルプスを無視していたら?……二人とも死んでいた。
心臓を突き刺していたら?……二人とも死んでいた。
後数分、いや30秒でも気づくのが早かったら?……コルプスは救えない。今と変わらない。
抵抗力は、ニュートンの粘性抵抗で良いのか? 慣性抵抗も考慮すれば……変わらない。
当日の周辺の水温は何度だった? 温度が変化すれば、僅かだが、密度や粘度が変化するが……変わらない。
待った。そもそもこれは三次近似でしかない。更に摂動項を増やせば……変わらない。
何故、誤差が伝播しない? 今までは、苛立たしかった誤差を今では切望している。
丸め誤差を考慮すれば……エウレーカ!バタフライ効果が起きた! あなたを救えた可能性が存在した!
久しぶりに落ち着いた気分でカレンダーを眺めた。
あの時から、かなりの日数が経っていた。だが、私の主観的な時間はあの時から僅かしか変化していない。
流石に長時間没頭しすぎて疲れた。少し休もう。
私は、コップに水を注いだ。コップには半分ほど水が入っている。
まだ半分も水がある。そう思いながら、私は眠りについた。
悪夢にうなされて目が覚めた。あるパラメーターに間違った数値を入力したというものだ。
私は、それを否定するために、昨日の計算の確認を始めた。
それが間違いだった。バタフライ効果が起きたのは、入力間違いに過ぎなかった。
正しいパラメーターによる再計算では、あなたを救える解は存在しなかった。
昨日そのまま放置したコップが目に入った。コップが半分空になっていた。
変わらない……変わらない……変わらない……不変……運動量とエネルギーの保存……変わらない……不変……
ラグランジアンLが一定……変わらない……不変……
ハミルトニアンHが一定……変わらない……不変……
ネーターの定理……変わらない……不変
もう諦めた。確かに様々な可能性があった。しかし始まりと終わりは変わらない。
退けられたはずのラプラスの悪魔が、未だに存在する。
Alea jacta est
賽は投げられた
あなたを殺した水(aqua)と私(Aqua)。 小文字と大文字、どちらも憎い。
ファウストが望んだ様に、全ての海洋を埋め尽くしたい。
過程が重要? 第一原因は”自然”現象。土台を揺すっても変わらない。勝手に土台は揺れるというのに。
No amount of sympathy for you could alter the second law
多量のあなたへの同情も、あの第二法則を変える事は出来ない
無力だ。そもそも私は、あの時に選んだのだった。法則にひれ伏すことを。
そしてあなたはそれに服従しないことを。
変わらない事を考えるのは非合理だ。もうやめよう。