Frigidus Symmetria
Definitio U: Analogia (類比)
二人はチェス盤を見つめていた。思案の末、アクアが駒を進めた。
コルプス・クルーチェ(Corpus・Cruce)は、即座に良い手が思いつかず、窓から外の景色を眺めた。
窓から見えるのは、ほとんど水だ。そして、見えない部分も水で囲まれている。
二人がいるのは、海中にある潜水艇アクティオ。
その目的は深海調査であり、二人の仕事は海における様々なデータの収集だった。
二人は自ら望んで、この調査に乗り出したのだが、水に囲まれた変わらない光景と単純作業の繰り返しとなるデータ収集に飽きていた。
その暇つぶしの一つが、チェス。賭けたのは面倒な解析作業だ。
コルプスが、窓の近くにある水深計を見た。水深計は、この船が徐々に沈んでいる事を示していた。
「この船にも凄い水圧がかかっているんだよなあ。全然実感がわかないけど」
アクアはそれに答える。
「何なら、外に出て自分の体で経験してみます?」
コルプスは考えながらいった。
「うーん。死ななくても、よく分らなそうだからやめておく」
コルプスは盤面に向き直り、駒を進めた。それは、アクアの予想外の手だった。
コルプスは大方論理的でありながら、時々、こういう意味不明な手を打ってくる。
後で本人に聞いても、直感、気分といった非論理的な理由が78.3%を占める。(アクアによる統計調査より)
この潜水艇におけるアクアの勝敗は、一勝六敗。惨敗だ。
無論、アクアが面倒な作業をしていた。
繊細な作業はコルプスの苦手分野で、アクアの方が向いていた。
だから、チェスの勝負が無くても、アクアがおそらくやる事になっただろう。
だとしたら、何故チェスをやるのか?
アクアにとっては暇つぶしというよりも、チェスでコルプスより強くなることが目的だったからだ。
そもそも、アクアにチェスを教えたのはコルプスだった。他にも様々な事を教わった。
二人の好みの影響で、かなり数理科学に偏ってはいたが。
コルプスは自分が取った駒を見ながらつぶやいた。
「そういえば、ファインマンが言ってたな。自然法則を学ぶ事は、神々のチェスを横目で見て、ルールを習得するみたいだって」
アクアは、コルプスの話よりも盤面に集中し、冷静に相手を追いつめる手を打った。
今まで、コルプスの予測不能な手に動揺して、何度負けた事だろう。
「チェスは、ゲーム理論では、二人零和有限確定完全情報ゲームに分類されます。
チェスに限らず、法則のアナロジーにゲームはよく使われますね」
アクアはコルプスの予想外の手に注意するあまり、会話ではなく単なる事実の羅列を述べていた。
アクアとコルプスは更に、数十手を打ち合った。互いの駒はほぼ取られ、ゲームは終盤へと近づいていた。
ついにアクアが勝利を確信してクイーンになったポーンを動かし、チェックメイトを宣言した。
その瞬間に船内が大きく揺れた。盤上の全ての駒が滑り、チェスのルールに代わって、重力の法則で落下した。
アクアとコルプスも椅子ごと倒れ、駒と同じ法則で、ほとんど同時に着地した。空気抵抗は大きな影響を与えなかった。