Frigidus Symmetria
Definitio V: Aequatio-ii
白いボタンを押そうと、手を伸ばして直前で止めた。
何故、黒いボタンだと分かっているのに、こんなおかしな行動をしたのだろう?
このボタンは、私には、”白”に見えるが、他者から見ると”黒”に見えるからだろうか?
そんな考えを捨て、黒いボタンを押そうとした時、アクアの脳裏に数日前にコルプスがこの近くで何か作業をしている光景が浮かんだ。
妙な胸騒ぎがして、コルプスに尋ねた。
「コルプス。酸素の残量の確認は、黒いボタンですよね?」
コルプスは頷きかけ…慌てて首を振ると叫んだ。
「違う! 黒いボタンじゃない。隣の白いボタン! ちょっと改造して、白いボタンは酸素ボンベを遺棄するものになってるんだ…」
コルプスは急いで、こちらに辿り着き、一息つくと、話を続けた。
「上にテープに書いたラベルが張ってあるのに、それを確認しないなんて……剥がれてる…」
コルプスは辺りを探して、スイッチの上ではなく、自分の足の裏に貼ってあるをテープを見つけた。
「と、とにかく、酸素の残量の確認は黒いボタンじゃなくて白いボタンだ」
アクアは白いボタンを押そうとして止まり、コルプスの方を振り返った。
「私の見ている”白”と、あなたの見ている”白”は同じですか?」
ふと、そんな疑問を抱いた。
「アクアじゃないから分からないよ。可視光をすべて反射する色って言えばいい?」
コルプスの頭の中では、”白”が”黒”に見え、”黒”の事を”白”と呼んでいるのかもしれない。
逆に私がそうなのかもしれない。いずれにしても、可視光を反射するというのは個人の認識に関わらないれっきとした事実だ。
アクアは白いボタンを押し、酸素の残量を確認した。
二人が数日生存できるだけの十分な量があった。
どうやらクラークの『Breaking Strain(ひずみの限界)』の様に、酸素不足に悩む事はなさそうだ。
潜水艇自体はひずみながら壊れつつあるが。(It is being broken by the strain.)
次に、アクアは、今の潜水艇の深度、加速度、耐圧限界を調べ、潜水艇が壊れない条件を透明な黒板で計算し始めた。
現在地における海底の深さは、潜水限界より深かった。更に、推進装置が故障した為、浅瀬に移動する事は不可能だ。
つまり運動は二次元とみなせて、沈むか浮くしかできなかった。
潜水艇に働く力は大雑把に考えると、浮力、重力、抵抗力だ。運動方程式は次の様になる。古典力学の範疇だ。
M dv/dt =ρVg -mg -kv
M:船の質量 v:船の速度
ρ:水の密度 V:船の体積
g:重力加速度 k:粘性抵抗の比例係数
浮力が重力を上回れば(ρVg > mg)、無事に浮上できる。
そうでなくても、浮力と重力が釣り合えば(ρVg = mg)、抵抗力によって潜水艇はある深度で停止する。
無論、それまでに耐圧限界を超えてしまえば無意味だが。
このまま、バラストが投下できない場合、約3時間後には、耐圧限界を越え、潰れてしまう。
救助隊が来る7時間には、到底間に合わなかった。
「計算では、このままだと後3時間ほどで潰れます」
コルプスは、素早く透明な黒板に走り書きされたアクアの計算を確かめ、うなずいた。
「本当だ! とりあえず、投下装置を直してみよう。もしダメなら、他の手段も考えないと」
アクアとコルプスはバラスト投下装置を直そうとしたが、その原因は船の外部にあり、内部からの修復は”改造者”コルプスでも不可能だった。
船外に出たところで、水圧によって潰されるだけだ。
二人は、他の方法を模索し始めた。
浮力を強める何らかの手段は考えつかなかった。それどころか、フロートの一部が破損して、浮力が小さくなっていた。浮力は一定だ。
そうなると、取りうる手段はただ一つ、質量Mを小さくする事だ。
この潜水艇には二つの船室が有り、その形状はほとんど同じで、左右対称になっている。
船室間には隔壁があり、緊急時には片方の船室を水中に切り離す事ができた。
片方の船室に不要物を集め、共に破棄する計画だ。
二人は、沈まないために、どれだけの質量を捨てる必要があるか算出した。
そして、船内にある不要な物を片端から集め、その質量を測定しながら、反対の船室に遺棄していった。
しばらくして、二人がかりで、大きな不要物を反対の船室に運んでいる時だった。
急に警告音が鳴り響いた。そして、二人が出る暇もなく、隔壁の扉が閉じた。
「緊急事態につき、規則項目M第8節発令。データ保護を最優先とし、他の部分を切り離し、緊急浮上を試みます。船室遺棄まで後…10分」
コルプスは驚いて、船室の上部に設置されたカメラに問いかけた。
「こっちは、二人の生命がかかってるんだ! データとどっちが大事なんだ?」
「人命救助プログラム実行……禁止。…人命よりデータほごユウセン…」
この船には、データ収集と航行の補佐のため、音声と画像認識ができるAIが搭載されていた。
音声と画像認識ができるため、錯覚しそうだが、主に与えれらた命令をこなすだけの自律性の低いものだ。
明らかに今までと様子がおかしかったが、HALの様にAIが反乱したのではなく、プログラム自体のエラーだろう。
「コルプス。感情に訴えても無駄です。多分、単なるバグですから。人命救助とデータ保護のプログラムが競合した際に、データ保護を優先するようになった様です」
アクアはそういうと、内部システムにアクセスし、バグを起こした箇所を探し始めた。
しかし、システムが複雑に絡み合っているため、バグの原因を特定するのは難しく、時間だけが過ぎていった。
気づけば残り時間は、一分しかなかった。
バグらしき箇所を一か所見つけたが、それにかけるしかないだろう。そんな時に、ポーンを持ったコルプスが呑気に呼びかけてきた。
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